あたりまえのことをあたりまえに...

 誰でも感じるごくあたりまえ、普通のことを、これまたごくあたりまえに言っても、書いても、詠んでも、撮っても何ら面白くない。誰でもが普通に感じる当たり前のことを当たり前に詠んでも書いても、それは人を引きつけるものにはならない。

 人は発表欲、表現欲がけっこう旺盛である。ネットが普及し、ブログ、ツィター、フェースブックなど大はやりである。平凡なことを書いていても、表現方法を含めて、何か感じるなにかを得ると感じるものは読者を増やすだろう。

 何かを感じ何かを得るとは何か。日常の平々凡々的なことがらの中でも、今までにない視点や新鮮な切り口を発見すると、読者は、なるほどこういう見方や解釈の仕方もあったかと驚く。端的にいえばそういうこと、言うは易しだが、これは実際はなかなかむずかしい。

 それには、これも言うが易しだが、先ずは鋭い観察眼を磨くこと。偏らない広い知識や体験を身につけること。 日々、漫然と過ごしていては、観察眼を磨いたり、新しい視点など見つかるわけがない。例えば、俳句や短歌をやっている人は先刻承知だと思うが、いつもいい歌・句材料はないかと、どこにいてもものごとを注視し、観察している。

 すなわち、さまざなな事象や生活風景をアクテブに見つめている。ただしこの場合、文字通り視点変えて、人の目線の高さだけでなくいろいろな角度・位置・立場から見ることも必要だろう。このように長年やっていると自然、観察眼も鋭く磨かれる。
 
 それはいいかえれば、ものごとを注視し観察することで、能動的にとてもいきいきとしているのである。脳やこころもちが活性化されるともいえるだろう。もちろんこれはシニア世代のいわゆるぼけ防止にも繋がるに違いない。