アストラ・ピアソラ(1921〜1992)の世界・その2

  ”バンドネオンで血の沸き立つ音楽”を奏でるタンゴの革命児、アストル・ピアソラはイタリア系移民の子としてブエノスアイレスに生まれた。まもなく一家はニューヨークに移住し、彼は少年時代をそこで過ごした。まわりの影響か、八歳の頃からバンドネオンをはじめ、16歳の頃の1937年、母国のアルゼンチンに帰国。引き続き音楽の道を進んだ。1954年パリに入学。

 パリ音楽院の名物女性教授だったナデア・ブーランジェに師事。ブーランジェはコープランドやピストンの師でもある。なお、ナデア・ブーランジェの妹リリー・ブーランジェはわずか25歳で夭折した天才作曲家、父そして姉妹で有名なローマ大賞を受賞した優秀な音楽一家だった。

 ピアソラが「第二の母」と呼んで尊敬したブーランジェは、タンゴにおける彼の傑出した才能を見抜き絶賛、独自の方法を追求するように奨励したという。この頃、ピアソラは本格的にクラシックへの転身も考えていたようである。

 1955年帰国し、先鋭的な創作・演奏活動を始めるが、彼のいわばモダンタンゴは母国ではまだ受け入れられず、1958年一旦、ニューヨークへ。

 ニューヨークではジャズタンゴという独自の形式も生み出したが、1960年再度帰国後は、自身のバンドネオンとバイオリン、ピアノ、コントラバスエレキギターからなる五重奏団(キンテート)を結成、従来のタンゴを刷新する「新タンゴ(タンゴ・ヌエボ)」を主張、積極的な作曲・演奏活動を繰り広げた。今度も当初は、伝統的なタンゴの支持者からは、「タンゴの破壊者」と批判を受けたが、次第に次第に支持が広がり民衆にも浸透、やがて国際的な評価も確立して行った。

 好きな「アディオス・ノニーノ」を聴きながら稿を書いている。1959年ニューヨークで、母国での父の死を知り、その哀しみをこの作品に。「アディオス・ノニーノ」は予想もしない大ヒットになり、今日まで彼の代表作のひとつとして親しまれている。

 −−聴き手にストレートに肉薄していく激しい音楽、しかし不思議に無垢で純粋な美しさを放つ−−諸星幸生。