信州でとりわけ、ちくわが食べられるようになった理由・歴史的背景

 ネットに出ていた能登の水産会社・スギヨ関連の記事から、信州でとりわけ、ちくわが食べられるようになった理由・歴史的背景などを探ってみよう。

 ポイントは信州にあったということのようである。交通が未発達の大正時代、内陸の長野県では魚介類が貴重品だった。スギヨは、定置網に入っても食用にならなかったアブラザメをちくわの原料として活用し、量産を始めた。

 スギヨは、ちくわの穴に食塩を詰めて腐敗を防ぎ、七尾港から新潟県直江津港まで海上輸送し、そこから馬車で長野県へ運び込んだ。江戸時代、能登越中・氷見のブリに塩をすり込み、それを飛騨や信州へ運んだブリ街道があった。スギヨはスピリット精神で「ちくわ街道」を拓いたのである。

 長野県では「ちくわを買えば、穴の中の塩も使えるので一挙両得」と人気を博し、みそ汁の具の定番となるほど売れた。今でも長野県のちくわ消費量が際立って多いのは、このような歴史的経緯がある。

 そして昨日書いたように、戦後の栄養不足の時期、1952年(昭和27年)に発売したのが「ビタミンちくわ」である。ビタミンA、D(現在はAとEを配合)が豊富なアブラザメの肝油を配合し、安価だったこともあり、飛ぶように売れた。

 直江津港から長野へ運ぶ途中にある上越地方に「ビタミンちくわ」が普及していったのも、当然の成り行きだった。だが、海に近い上越地方には多くのかまぼこ店があるのに、スギヨに対抗できなかったものだろうか。

 上越市にある蒲鉾店の話だと、あの値段(2本入り100円前後)では作っても採算が合わず、対抗できない。ちくわはスギヨさんに任せている−−、ということらしい。

 信州人のちくわ好きはなんと、100年近くにわたってDNAに刻み込まれたものだったのだ。